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超・罪と罰−−オウム事変のつきつけたもの  [1995.9]

 

 1995年3月20日に発生した地下鉄サリン事件は、前年6月27日に起きた松本サリン事件をも含めて、一連のオウム真理教による日本−世界国家転覆に至るクーデター計画の挫折が漏出した出来事であったらしい。通常の政治党派と違って、教団・教祖みずからがそのような意図と計画の存在したことを公式に表明したことが、今現在(96年2月)、一度もないので、ほんとうにオウム教団に革命戦争の計画があったのかどうかはわからないし、具体的にどのような革命構想を抱いていたのかなどということも乱舞するマスコミ情報をつなぎ合わせた憶測の域を出ることはできない。

 

 教団、教祖がいっさい関与を認めていないという点では、昭和2年(1927年)に起きた「満州某重大事件」からの一連の日本軍の満州・中国謀略に似ている。昭和6年の満州事変、昭和12年の日華事変も、いずれも日本軍が関与を否定した柳条湖事件、蘆溝橋事件をきっかけとして戦闘が拡大していったがゆえに、宣戦布告にもとづく戦争ではなく「事変」とよばれている。オウム教団が仕掛けようとした闘いも、「事変」というしかないだろう。

 

 あまりにも安易に人間界の「人間性(ヒューマニティ)」なるものを「解脱」してみせたかにみえるオウム教団幹部による殺生行為の異常性と残忍性の度合いが際立っているこの事変の衝撃について、以下いくつかの角度から考えてみたい。

 

第一節 無差別殺人の「狂気」とマスコミの「狂気」

 オウム真理教の殺害による「救済(ポア)」の対象は日本の住人の総体であったから、当然、運よく免れた私(地下鉄丸の内線に乗る機会は多い)もまた、潜在的な被害者であったし、誰もが潜在的被害者の立場でオウム真理教の奇僑な行為に対して批判をなす資格を有しているといえる。麻原彰晃という人物は、最も原始的な次元での批判と憎悪の根拠を、普遍的に分配するという行いを、意図的になしたものということができる。自殺を願望するもの以外は、誰もその根拠を手放すことも忘れることもあり得ないであろう。

 

 しかし、オウム真理教という謎の教団の教義を調べ始めると、世間で恐怖感と原始的な憎悪に満ちた罵詈雑言のマインド・コントロールが想像を絶する量の紙と電波を用いてなされてきたのとはまったく相貌を異にしていることに唖然とさせられる。おそらく99.9%の人々が、警察とマスコミの流す意図的な情報とその尾ヒレの自己増殖の波状にさらされているうちに、いつのまにか無批判に麻原彰晃という人物はとんでもない俗物でただの詐欺師であるという虚像を呑み込んでしまっている。はじめのうちは、当局・マスコミ情報に懐疑的な方法的態度をとりえていた左翼進歩派的な知識人諸氏のほとんども、ただひたすらに類似の情報が波状的に、自己増殖的に押し寄せてくるという最も単純な手法、ただそれだけによって、いつのまにか見事なまでに「マインド・コントロール」を受け入れてしまっていた。彼らが耐え得たのは、せいぜい3月末から坂本弁護士一家の遺体が発見された9月初めまでの5カ月程度であった。

 

 論理的に取捨すれば非常に多くの部分が、前後の文脈を意図的に切断した「事実」であるか、根も葉もない脱会信者の憶測であるか、それらの混合したマスコミ周辺人士の想像の産物であるか、それらが二次的・三次的に自己増殖したものであるか、分別はできるわけである。その点で、ある日の『東京スポーツ』は自己批評性のある卓抜なユーモアを書いていたともいえる。95年10月に上祐史浩が逮捕される前に、南青山総本部に幹部を集めて会議を開いたことに関して、「逮捕が避けられぬと感じた上祐氏は、そこで国定忠治を気取り、大芝居を打った。鎌田氏ら幹部を集め”富士宮も今宵限り、分かれわかれらになる門出だ”と政権引き継ぎのクサイ芝居を演じたのだろう。それにしても、国定忠治を気取るなんて何を考えているのか? 忠治が聞いたら『俺を気取るなんて大迷惑』とばかり怒り狂うことは間違いない。」(95919日、吉沢信之記者) 自分で勝手に国定忠治を引き合いに出しておいて、「それにしても、国定忠治を気取るなんて何を考えているのか?」。なかなかいいセンスをしていると最初は腹を抱えて笑っていたが、だんだんとマスコミ自身がいかにオウム報道に関してこれと似たような手口を使っているかということを、『東スポ』一流の逆説でカリカチュアライズしてみせているような気もしてきたほどである。

 

 20数人を死に追いやり、多くの人を意識不明の状態に陥れているサリンの撒布に比べれば、こうした報道の撒布の罪は無に等しいとでも考えているのだろうか。だが、それは既成の情報化社会以前の法体系のうえでのはなしである。実際には、サリン撒布にまさるともおとらない恐るべき悪影響が長期間にわたって社会に撒布されているのだということが、誰の眼にもあらわになる時がいずれはくる。そうしたことへの予感や漠然たる不安もなしに情報公害をひたすら垂れ流し続けるマスコミ資本が、「環境に対する汚染」の罪で責任を問われる時代はかならずやってくるであろう。そのとき、「高度成長の時代の雰囲気の中では、チッソによる水俣病の垂れ流しをとどめることはできなかった」というのと同じような台詞を吐くことも目にみえている。

 

第二節 集団的トラウマとしてのハルマゲドン

 新宗教ブームの時代背景については、あらゆるマスコミをつうじて語られ尽くしている。そしてそれは誰の眼にも明らかなことをとらえている点では間違っていない。管理教育による自分自身による判断力の萎縮。自然科学教育の専門偏重による理系エリートのバランス感覚の想像以上の崩壊。オカルト・大予言ブーム。科学技術文明と物質文明の行き詰まり感。コンピュータ社会のゲーム感覚と自他の生命に対する実感の希薄化。

 

 また、吉本隆明が指摘しているように、第一次産業、第二次産業中心の社会から第三次産業中心の社会へと移行していく過渡期にあって、既存の倫理秩序の体系が適合できなくなりつつあるという問題に鋭敏に反応している部分が、新宗教に吸引されているのだということもいえる。

 

 しかし、このようなことは40代以上の世代には、分析の対象であるかも知れないが、私のように30代やそれ以下の世代のものにとっては、そうしたことはおそらく分析するまでもない自明の事柄に属する。もちろん、私たちは、神秘主義に対する関心を欠落しているから新宗教に吸引されないのだが、それでも大予言やハルマゲドンといった文法体系には精通しているといってよい。

 

 オウム真理教のハルマゲドン観念は、1940年代の日本やドイツにおける世界戦争の観念や、1960年代の世界赤軍の観念とくらべてみたときに、それらと同程度にしか、「現実離れ」しているわけではない。ただ、1990年代の若者達の言語や観念になじみのない40代以上の世代には、言語体系自体が異様なものに響くのであろうが、それは逆にいえば、われわれの世代に「世界革命」や「世界戦争」の観念が異様なものに感ぜられたことと同じことである。

 

 われわれの世代であれば、ハルマゲドンといえば、核戦争(に代表されるカタストロフィ)の代名詞であるということは常識に属する。もちろん、ハルマゲドンなるものが『ヨハネの黙示録』に出てくる地名に由来するということも。

 

 こうした情報について決定的な役割を果たしてきたのは、なんといっても五島勉の『ノストラダムスの大予言』シリーズであろう。第1巻が出たのは1973年で、私が小学5年のときだが、そんなものを読んでしまって心底、夜も眠れなくなったという共通体験を、われわれはもっている世代である。これによって核戦争(に代表されるカタストロフィ)に対する恐怖感を、深層意識に刻み込まれたのである。

 

 ものごころが成長するにしたがって、それは薄らいでいたのであるが、1979年、私が高校2年のときに第2巻が出て、再度呼び起こされた。この頃は、カーター政権の末期で、イラン革命からイラン人質事件、アフガニスタン侵攻からポーランド連帯、ポルポト派の大虐殺から中越戦争と世界情勢の不安が急激に高まっていた時期であった。

 

 こうしたマルクス主義イデオロギーの分裂崩壊、イスラム原理主義の台頭も絡み合った、真に複雑な世界情勢の中で、レーガン政権が登場し、その積極的な反共姿勢と徹底した軍事的ソ連封じ込めの核戦略とが呼び起こしたのが、最後のソ連寄りの運動の盛り上がりとなった1982年の反核運動であった。このとき、私は吉本隆明の『反核異論』を読むことによって、ハルマゲドンとしての核戦争という観念からは距離をとるようになったのだが、考えてみると、そういうのは圧倒的な少数派に属するであろう。むしろ、非常に多くの部分は、ハルマゲドンと核戦争のマスコミによるマインドコントロールは「解かれないまま」になっているといってのではないか。この世代的な集団無意識を理解しなくては、冷戦終結以降に持ち越されたハルマゲドン・パラノイアをとらえることはできない。

 

 オウム教団の平均年齢が32歳でちょうど上祐史浩の世代にあたるという。(ちなみに、この昭和37年生まれの著名人には、宮崎勤、宅八郎など“そうそうたる”面子がいる。また、高校1年のときに祖母を殺害して自殺した朝倉泉は、早稲田高等学院における上祐の同級生であろう。) 誰がどういうものさしではかっても、発狂状態にあるとしかいえないようなテレビのワイドショーでは、オウムのマインドコントロールがハルマゲドン妄想を信者に植え付けたと、オウム返しに繰り返しているが、われわれの世代にそれを植え付けたのは、マスコミそのものによるマインドコントロールなのだということは、客観的事実として確認しておきたい。

 

 ハルマゲドンへのタイムスケジュールに対して、なんとかそれを脱却する運動はないものか。五島勉は『ノストラダムスの大予言』シリーズで、「別のもの」が登場すれば、ノストラダムスの大予言自身が無効になるとする予言があるとしている。

 

  二十年間の月の支配は過ぎ去る

  七千年、別のものが王国を築いているだろう

  太陽がその日々を放り出すとき

  そのときわたしの大予言も終わりを果たすのだ

 

 では、その「別のもの」とは何か。五島はそれを西洋物質文明に対峙する東洋思想に求めようとしている。これが、オウム神仙の会からオウム真理教にいたる麻原彰晃をはじめとするインド思想への関心の契機となっていることは、麻原の『ノストラダムス秘密の大予言』と五島勉のシリーズを見比べてみれば一目瞭然である。わたし自身にも、その契機は共有されているからである。20〜30代の世代の若者の中に、仏教その他の東洋思想に詳しいものが意外と少なくないのは、たんに、1970年以降の、ジョン・レノン的なインド・ブームだけではないのである。(五島勉の以外にも黙示録とノストラダムスを扱った数々の予言ものがあるが、何といっても五島勉の解釈体系が麻原彰晃ののそれと最も酷似していると思われる。しかも、驚くべきことに、五島の一連のシリーズには『カルマの法則』[祥伝社、1978]という本もあり、仏教的な世界観にもとづくこの用語を普及させた事実もある。)

 

 だが、宇宙開発事業団や神戸製鋼に就職したほどの理科系エリートである上祐史浩や村井秀夫とは対照的に、私立文科系の劣等生で社会や政治に対する関心のほうが強いタイプだった私は、自然科学や宇宙の神秘や超常現象のほうへの関心は皆無だった。したがって、幸か不幸か、オウム的なものに触れる機縁はなく、時代遅れの新左翼的なもの(吉本思想、廣松哲学、柄谷文芸批評、宇野経済学)にのめり込んでしまった80年代であった。そのことは、しかし、「別のもの」や東洋思想から縁を切ったというつもりではなかったのである。吉本隆明の『最後の親鸞』と、廣松渉の『仏教と事的世界観』を媒介環として、マルクスと仏教と「別のもの」とは、確実に私の深層意識の中で結び付いていたからである。オウムの彼らが「救済の戦士」たろうとした深層意識の回路そのものは、私にも共有された世代性として刻印されたものということができる。

 

 そして、化石でしかない新左翼に見向きもせず、新宗教という方向を突っ走った彼らは、想像もできないような馬鹿げたクーデター計画を立ち上げかけていた。しかし、その国家改造ビジョンや戦略・戦術のビジョンの、あまりに不釣り合いな稚拙さに比べて、まさに神通力としかいいようがないような実行力が、同年配の我々からみたときそこにはあった。

 

 われわれの世代にとっては自明な「時代背景」よりも、なにがオウム教団をして、麻原彰晃教祖をして特異な理念の方向性に踏み込ませたのかということこそが謎なのである。

 

第三節 仏教の両義性

 ヨーガそのものは、いくら身体性の変容−向上をもたらし、感性、直感力や思考能力などを向上させるものだとしても、さらには通常は得られない「神秘体験」を自覚的に操作できるようにするものだとしても、それは所詮は技術的・手段的なものにかかわるものであって、目的的なものにかかわるものではないことは、麻原彰晃自身が強調している。そうすると、ヨーガでいくら「神秘体験」を積み重ねても、そのことが人間を、世界を、社会の複雑な構成を理解する「智慧」には直結しないことも自明に思われる。当然、ヨーガにおいてそうしたものを補う位置にあったのは、バラモン教やヒンズー教や、あるいは仏教やジャイナ教であったろう。しかし、麻原彰晃は、瞑想をつうじて神秘的な「智慧」(アストラル・データ、コーザル・データ)が得られるということを言っている。

 

 いうまでもなく釈迦は、生死ということについて最も徹底して思考した古代の思想家であった。という意味は、一方で生とは一切皆苦の根源であるというところまでつきつめながら、他方でそのような苦しみから解脱するためには自他を含めて殺生をしてはならないのだと戒めているからである。このような矛盾する命題によってしか生死を語ることはできないということに到達した、恐らく唯一の古代思想家であった。

 

 仏教的な生死観は、つねにニヒリズムに転落する危険性をはらんでいる。だが、インドでは輪廻転生説と一体となったものとして仏教的な生死観があったので、ニヒリズムへの傾向は強くはなかった。輪廻転生説の希薄な中国や日本に伝わったときに、仏教はニヒリズムへと陥る傾向を強めたといえる。とりわけ、一切が無だということを強調する禅宗と、厭離穢土を強調し極楽浄土への往生を強調する浄土教において、その傾向は顕著だったといえよう。

 

 ニヒリズムとは、殺生などの限界状況に関する倫理規範をぎりぎりまで問い詰めると、必ず、判断基準の成立しない境界例というものがあらわれることに原因している。しかし、醒めて考えると、そうした境界例というものは、稀にしか生じることのないケースなのである。たとえば、難破して溺れかかった人達が、たった1枚の船板を奪い合わなくてはならないような場合、このような場合、奪い取ったものは他の者を殺したのと同じこととなる。では、殺人罪となるのか。刑法ではそのような場合は殺人罪からは免責されるとしている。これを「カルネアデスの船板」といっている。カルネアデスとはヘレニズム時代のたしかストア派の哲人である。

 

 つまり、世俗の法規範の中では、例外的な限界状況で起きることは例外として処理して済ませているわけである。ところが、極めて稀なケースだ、例外だといっても、いつそういう出来事に巻き込まれるかはわからないじゃないか、新聞やニュースを見ても毎日毎日世界中でたくさんそういうことが起きているじゃないかと考え出すと、そうした想念から逃れられなくなる。そうした囚われの意識の中で考えてゆくと、そもそもこの世の中の法律や倫理道徳の規範というもののほうが、いかにも儚いものでしかないというようにみえてくる。

 

 これは、ある意味ではバランス感覚が失われた状態だといってよい。物事をぎりぎりと問い詰めてゆくと、誰でもこんなふうに感覚が囚われてゆくことになる。他人からみると、ノイローゼかパラノイアのようにすら見えてしまうのだが、本人は論理的に問い詰めていっているのだから、周囲の人間のほうが根拠のない規範に安住しているもののようにしかみえなくなる。

 

 このような状態は、多少なりとも哲学や宗教に関心をもつ人ならば誰でもなじみ深い状態だといえる。このような状態に囚われたままの場合、これをニヒリズムというのである。そして、少なくともニヒリズムを経過することのない哲学的思考などというものは偽物であに違いない。問題は、哲学的思考はニヒリズムを突破することができるのかどうか、ということである。

 

第四節 超・罪と罰

 この問題は、何も19世紀末になってニーチェがはじめて考え出したわけではない。すでに、遠く古代インドの釈迦以前の「六師外道」といわれる自由思想家たちが考え抜いていた問題なのである(「外道」とはもともとは仏教以外の教えのこと)。また、それは古代インドだけで考えられていたわけではない。古代ギリシアにおいても、実は、ソクラテス以前の「ソフィスト」と称されるようになった哲学者たちがそういう問題に突き当たっていた。

 

 むろん、ニーチェと同時代のロシアの文豪ドストエフスキーの『罪と罰』でも、苦学生のラスコーリニコフが誰からも憎まれている高利貸の老婆を殺害して学資を得ることは、それによって社会に有用な人材が育成されることになるのだから、これは完全なる善行となると考えて老婆を殺害してしまう。だが、ギリシア正教に信心深い少女ソーニャの純粋な愛情に触れることによって、ラスコーリニコフは「神」の前での「罪」に目覚めることで、予定調和的な結末を辛うじて迎えることができた。

 

 このようなことは、キリスト教のように絶対的な神とそのもとでの規範をア・プリオリに信ずるか、信じないか、という構造になっている宗教だからこそ成り立つ筋書きであるといえる。しかし、仏陀の教えのもとではそうはならない。絶対などというものはない、すべては条件によって因果的に生起し(A)、発展し(U)、消滅する(M)ものに過ぎない。すべては無常であり空であるとされる。

 

 このような考え方に立てば、何をやってもよいということを禁止することは本質的にできない。だが、釈迦の暮らしたインドには輪廻転生思想があって、悪いことをすると悪い生まれ変わりをするという迷信によって規範が与えられていた。釈迦もその規範にのって、苦しみに満ちたこの人生から逃れようとして他人を害したり、自殺をしたりすると、かえってより以上の悲惨な状態に生まれ変わってしまうと説くことによって、禁止の規範を設定することができたのである。すなわち、殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒に対する五戒である。

 

 このような輪廻転生の迷信がない中国や日本に仏教がくると、仏教はニヒリズムを招来しやすいといえる。浄土真宗と禅宗にその傾向は最も強いといえよう。禅宗の場合は、無を強調するので善にも悪にも能動性がなくなり受動的ニヒリズムにとどまるといってよいが、浄土真宗の場合は、どんなに悪業を積んでも阿弥陀如来によって救済されるというのであるから、かなり危険性を秘めていることになる。しかし、そこではまだ、積極的に悪業を奨励する要素はない。

 

 ところが、輪廻転生の考え方の強いインドやチベットで発展した密教のヴァジラヤーナにおけるアブショーブヤの考え方が現れると、積極的な悪業が奨励すらされるようになってしまう。そこでは輪廻転生が重要な要素となっている。アブショーブヤとは、ある人が輪廻転生するのにもっともよく生まれ変われる時期に死ぬのが望ましいという考え方だという。たとえば、生きれば生きるほどに悪業を重ねる人は、一刻も早く死んでしまうことがよりよい輪廻転生を可能とするという理屈になる。このような考え方がありとされれば、その人がよりよい転生を得られるように殺してあげる、というとんでもない論理が作り出されてしまうことになる。しかも、そのように殺してあげることで、殺された人は利益を得るのであるが、殺したほうは悪業を積んだことになるので、不利益となるのであるけれども、利他的精神に立ってあえてそのような悪業を引き受けることこそ究極の菩薩利他行となるというように、殺生、偸盗、邪淫、妄語が積極的に奨励されることとなるのである。

 

 このような考え方は、い釈迦のように輪廻転生をそのまま認めたうえでの五戒の設定は、論理的に突き詰めると反転してしまいうるということをあからさまに示したものだといえよう。

 

 もし、ラスコーリニコフが出会ったのがペテルスブルクのギリシア正教の信心深い少女ではなく、モスクワのオウム真理教の美人幹部だったとしたら、物語はどういう結末になっていたであろうか。もちろん、ラスコーリニコフは、彼の行った老婆殺人が、たんに老婆に高利を貪られる人々を救い、自分が将来立派な医者となることで社会に利益をもたらすといった、現世的なものにとどまるものではなかったことを「知る」。それどころか、あれ以上生き続けていれば、もっともっと悪業を積み続けなくてはならなかった老婆を殺してあげることによって、老婆自身の来世の生まれ変わりがそれ以上悪くならないようにしてあげるという思わぬ結果を伴っていたということを「知る」のである。

 

 これがギリシア正教ではなく仏教、密教、オウム真理教の信仰を土壌とした場合に成り立ちえてしまう『超・罪と罰』の一つの結末である。

 

第五節 オウム事変の根源的衝撃

 釈迦のように不世出の生まれつきの人だけが得られる境地を説く「宗教」が、広範な民衆を救うものとなる可能性はあるのか。もし、希有の人だけが解脱に至れるのにすぎないのであれば、希有の人以外には誰もそのような「宗教」の教えにしたがうことはないであろう。何をどうしても解脱できないことが確実な凡夫たちが、今生をできるかぎり享楽的に生きようとしてもしようがないであろう。

 

 そこで、おそらく釈迦が「方便」として考え出したのは、釈迦自身も何千生もの生まれ変わりをつうじて修行を重ねてきたからこそ、今生で解脱に至ることができたのだという理屈であったろう。それは、インドの輪廻転生の迷信に即した考え方でもある。悪いことはなしてはならない。来世はもっと悪くなるからである。善いことをなすべきである。来世がよくなるからである。できるならば、修行を続けなさい。今生や来世でも容易には解脱に至ることはできないだろうけれども、千生も二千生も努力を続ければ必ず解脱に至ることができるからである。

 

 これは、よくできた考え方であったと思う。カントの霊魂不死の「要請」のようなものとして、このような輪廻転生を「要請」した道徳体系というのも悪くはないように思われる。カントは、もともと「不合理ゆえに我信ず」というような非合理主義・神秘主義によって辛うじて吊り支えられているような倫理規範の体系を、惰性的な習慣によって再生産されるにすぎないと考えるのでなければ、実践理性的な「要請」によって非合理的な超越的な神の存在を措定するしかないと考えたのであった。だから、ここでいう「要請」とは、厳密に数学用語における「要請」として、「公準」と同じ意味で受け取られねばならないものである。

 

 *たしかに、「輪廻転生」の思想は、カースト制や女性差別などを正当化する論理にもなりえた。しかし、これは本文でみるように、いかなる論理体系であっても、社会的・実践的な含意はどのようなものでも引き出せるということでしかないのである。

 

 しかし、ヴァジラヤーナにおいては、釈迦的な輪廻転生をつうじた善業と修行の集積による解脱という考え方が、見事に形式論理的に反転させられてしまう。他人にも善く自分にも善いことだけをやることよりも、他人には善く自分には悪いようなこと、具体的には他人がこれ以上悪いことをして悪い生まれ変わりとならないように殺してあげること、そういうことを断行することこそが、そのように自分を顧みないで他人のために善いことをしてあげることこそが、究極の善業であり修行となる、というように。

 

 もちろん、このようなことが成り立つのはきわめて特殊なケースだけであり、濫用することは詭弁にしかならないのである。しかし、恐ろしいのは意図的な詭弁と濫用よりも、本心からする誤用である。なぜなら、何が誤用で何が正しい用い方であるかは、ついには客観的に判定することはできないからである。少なくとも、本人にとっては本心から、「周囲」にとっては錯誤としかみえない確信に支えられてする行為(カルマ)にたいして、内在的に批判する回路は、人間という生き物には与えられてはいないのである。

 17世紀の凄惨な宗教闘争の体験の中から、スピノザは次のように結論している。

 

  「思うにたとえある愚者あるいは狂者が何の報酬、何の威嚇によっても命令を果たすように動かされえないとしても、また某々宗派に帰依するこの、あるいはかの人間が国家の法律をあらゆる悪よりも悪いものと判断しようとも、国家の法律はしかしそのゆえに効力を失いはしない。国民の大多数がそれによって拘束されているのであるから。こうして、何ものをも恐れず、何ものをも希望しない人間は、その限りにおいて自己の権利のもとにあるのであるから、したがって国家の敵であり、国家は十分の権利をもってこれを取り締まりうる。」(スピノザ『国家論』岩波文庫、P.41-42

 

 もちろん、スピノザのいう「国家」とは社会契約論にもとづく個々人の自己利益を調整するようなものとしての主権在民的な「国家」である。断じて王権神授説的な「国家」ではない。そこでスピノザは、結局のところそうした個々人の自己利益の多数決の力だけがセクトやカルトを弾圧することの(法的)権利の根拠だと述べているのである。ここで問題は、政治、法律といった社会科学の領域へと移管されることになる。しかし、すでにみたように、世俗の学問としての社会科学では例外としてこともなげに処理されているさまざまな限界状況に対する囚われの意識から、哲学、倫理学、宗教の領域へと問題は差し戻されたのであった。このように問題は循環を続けざるをえない。

 

 だから、わたしにとってのオウム事変の衝撃とは、二千五百年前の根源仏教と、二十世紀末における科学技術の頂点という、いわば人類の叡知の長い歴史の両端をぎりぎりまで先鋭に突き詰めようと儚くも試みた集団によって引き起こされた、無差別殺人事件だったということにある。すなわち、それは二千五百年来人類が築き上げてきた文明や文化や倫理・道徳や社会秩序の立ち至っている現在における危機を、最も根深いところで象徴しているということである。

 

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